ゾーンディフェンスの歴史の話...の続き

 
ようやく4バックのゾーンディフェンスまでやってきました。この本のゾーンプレスの章では、ここからミランでのサッキの戦術に続くのですが、その前に他の章にも注目します。この頃に各地で起きた重要な2つの戦術について触れてみましょう。
 
ヴィクトル・マスロフのプレッシング戦術
 
 
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1つ目の戦術の舞台は共産圏旧ソ連のチーム、ディナモキエフキエフで1964年から監督を務めたのがヴィクトル・マスロフです。マスロフは、選手全員を連動させ一気に守備の網をかけ相手からボールを奪うプレッシング戦術を生み出しました。
 
プレッシング戦術の誕生は、サッカーを11人と11人の個が戦うスポーツから、11人の選手が構成する組織と組織が戦うスポーツへ変換させた戦術思想史上の大きな出来事と言えます。
 
さらにマスロフの後、ヴァレリー・ロバノフスキーがサッカーに科学的なアプローチを持ち込むこむことでプレッシング戦術を進化させます。ロバノフスキー率いるソ連代表は、強烈なプレッシングとオートマティックな連動性を持った攻撃を武器に1988年ユーロで大躍進を果たします。決勝でオランダに敗れるもそのサッカーは西側諸国に大きな衝撃を与えました。
 
マスロフ、ロバノフスキーが作り出した戦術は共産主義という政治体制と一脈通じるアプローチであったのは間違いありません。そして共産主義体制の崩壊と共に、旧共産圏のサッカーもその力を失っていきました。
しかし彼らの戦術思想はその後の戦術家に確実に引き継がれていきます。後にドイツにおける新世代の戦術家として登場するラルフ・ラングニックはその代表的な一人と言えるでしょう。
 
 
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2つ目の戦術はオランダの地に生まれた「トータルフットボール」です。(トータルフットボールという言葉はミケルス本人でなく、メディアが名づけたそうですが。)
そもそもオランダ、アヤックスには古くから技巧的で攻撃的なサッカーを好む土壌がありました。
 
パスによるポゼッションサッカーの源流は、イングランドのキックアンドラッシュに対抗したスコットランドのクインズパークというクラブチームのサッカーだと言われています。1959年にその流れを汲むヴィック・バッキンガムが就任しアヤックスポゼッションサッカーを植え付けました。ヨハン・クライフはユース年代にこのバッキンガムの元で指導を受けています。
 
1965年、バッキンガムの後を受け就任したのがリヌス・ミケルス。ミケルスは中盤に厚みを持たせた4-3-3システムを採用。ヨハン・クライフを中心選手として、ポジションチェンジによる流動性とパスワークによる攻撃、高い位置からのプレスとラインの押し上げという現代サッカーにつながる要素を含んだサッカーを作り上げます。
この戦術の重要なポイントは、フォワード、ミッドフィルダーディフェンダーといったポジション毎に相手を上回ろうと勝負するのでなく、11人でピッチ上のスペースを支配しようという考え方です。
 
攻撃的で美しく、なおかつ強いトータルフットボールは世界中のサッカーファンを魅了しました。しかしこのサッカーを実現するためにはトータルフットボールをやるためにカスタマイズされた高い技術と戦術理解を持った選手を必要としました。そのためミケルスもクライフもユース年代からの育成の重要性を強く説いています。
結局、ミケルスのアヤックス、オランダ代表、クライフの「ドリームチーム」バルセロナ以降、トータルフットボールをピッチに表現するチームは長らく現れることはありませんでした。
 
ミケルスとマスロフ、彼らの思想は後のフットボールに大きな影響を与えることになります。
個と個の戦いから、組織と組織の戦いへ。ポジションからスペースの支配へ。この2つの大きな戦術思想の変化を理解して、ようやくゾーンディフェンスの歴史の舞台をイタリアの地に移すことにしましょう。 

(1988年欧州選手権ソ連vsオランダ)
(↑縦横がおかしくなっていますが、非常に興味深い動画ですね。)
 
 
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マンツーマンからゾーンディフェンスへと守備戦術が移っていく中、イタリアはその流れと一線を置く例外的な国でした。
 
 
カールラパンの「スイスボルト」は、インテルを率いたエレニオ・エレーラによって「カテナチオ」と呼ばれる守備戦術に整備されます。自陣に引いてのマンツーマン守備から少人数でロングカウンターというカテナチオ。この戦術は、1950年代から1960年代に全盛期を向かえます。以後、イタリア国内の戦術は1対1で勝つことが全てという発想が主流となりイタリアの伝統になっていきます。
そこに登場したのがアリゴ・サッキです。1980年代後半、サッキはACミランに就任すると、マンマーク思想がはびこるセリエAにゾーンディフェンスをベースにしたプレッシング戦術を採用。このサッキの生み出した戦術は現代サッカーにもいまだ大きな影響を与える革新的なものでした。 
 
(ナポリvsACミラン 1990/91年セリエA
 
ただしこのサッキの戦術革命は、一人のイタリア人戦術家が突如生み出したアイデアではありません。
個をベースにした守備から組織をベースにした守備。マンツーマンからゾーンをケアする発想。引いて守ってカウンターではなくプレッシングからショートカウンター。サッキの取ったアプローチは脈々と続く戦術史の流れ(ゾーンディフェンス、マスロフのプレッシング、ミケルスのトータルフットボールなど)を汲み、それをイタリアという土壌と融合させようという試みに他ならないのです。
 
リベロシステムからの脱却と新世代のドイツ人戦術家達
 
イタリア同様にマンツーマンへ独特のこだわりを見せていたのがドイツです。ドイツは1974年ワールドカップ西ドイツ大会で優勝しましたが、その時のシステムが皇帝フランツ・ベッケンバウアーリベロに配した4-3-3のリベロシステムでした。確かに1960年代後半から1970年代においてはリベロは最も先進的な戦術思想でした。しかしサッキのゾーンプレス以降、 他の国が次々とゾーンディフェンスを採用していく中、ドイツでは1990年代に入ってもリベロシステムが踏襲し続けられていたのです。
1990年代に入るとフォルカー・フィンケラルフ・ラングニックといった新世代の戦術家が頭角を現し、ようやくドイツでもゾーンディフェンスが注目されていくことになります。特にラングニックはロバノフスキーの影響を強く受けており、ドイツに根付き始めたゾーンディフェンスの土壌にプレッシングのエッセンスが加えられていきます。さらに彼の思想を引き継いだ、クロップ、トゥヘル、ナーゲルスマンなど現在活躍する優秀なドイツ人指導者がぞくぞくと出現し、今やドイツは戦術大国と言っても過言ではない地位を確立しています。
 
続いていく思考実験
 
これでようやく現代までやってきました。ここまで見てきて守備戦術の歴史とは人からスペースへという戦術思想の移り変わりだというのがわかると思います。その思想の変換を戦術としてピッチ上に具体的な形に表したのがサッキのゾーンプレス戦術です。
そして、スペースをいかに支配するかという攻防は現在も続いています。だからこそサッキの戦術は今でも戦術家達に研究され、様々な戦術のベースになっているのでしょう。

いかにスペースを支配するかという思想が進んでいくとプレッシングの重要度はますます高まっていきます。現在の守備戦術ではプレッシングはもはや欠かせない要素となっています。

プレッシングと言えばマルセロ・ビエルサが教祖的存在として有名ですが、彼はマンマークという一見時代に逆行する守備戦術を採用しています。しかし、彼がスペースを徹底的に支配するためにプレッシングを極め、そのために必要な手法としてマンマークを採用していると考えれば、ビエルサの戦術も現代の戦術思想に沿ったものだと理解できるでしょう。
 
この章で最後に触れられているチームは2004年ユーロで優勝したギリシャ代表。ギリシャを率いたドイツ人のオットー・レーハーゲルは1988年、1993年にブレーメンをドイツブンデスリーガ優勝に導いた監督でした。レーハーゲルはすでに過去のものとなり誰もが対策を忘れてしまったマンツーマンディフェンスを採用しギリシャを優勝に導いたのです。
 
次から次へと戦術のアイデアが提示され、アイデアが提示されるたびに何か対策を見出そうとする戦術家達が出てきます。戦術の歴史とは100年を超える正に思考実験の歴史です。
 
今回はゾーンディフェンスという軸に沿ってその歴史を辿ってきました。本では他にも様々な戦術の思想史について書かれています。それぞれの戦術がその時代の様々な戦術思想と網のように絡まり、影響し合い新たな戦術が生み出されていきました。
これらの戦術思想史の積み重ねの上に、僕達が今見ているフットボールは成り立っています。
 
思想のない戦術は中身の無い空き箱です。システムや選手の動きという目に見える戦術だけでなくその思想史に思いをめぐらせることで、より深くフットボールを理解できるようになるのではないかと思います。
 
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